最終回は空の道で安曇野へ

最終回は番組で募集した安曇野を訪ねる空の道を使ったツアーを紹介。
このツアーの目玉は白馬岩岳スキー場で行ったスノーシュー、つまりかんじき体験。
新雪をスノーシューをさくさくいわせて歩き、参加者のみなさん大変楽しそうでした。
番組に登場した観松院の半跏菩薩像も見学。姿の美しさに感嘆の声がでてました。
夜は一年を通じて鳴いているすずむしの声をバックに、ちひろ美術館の松本猛さんの
失われた弥勒の手の話、白馬小谷研究社の田中元二さんの塩の道の話を聞きました

信州のエゴと博多のオキュートを比較

安曇族が信州に持ち込んだとみられる九州の食文化の一つ、オキュートと信州のエゴを
スタジオに持ち込み、ふるさと料理人として知られる藤清光さんに比較していただき
ました。
その結果分かったことは、信州のエゴは100%エゴ草でできており、九州の
オキュートは、原料のエゴが現在では近辺の海でほとんど収穫できないので、エゴ草に
いろんな海藻を混ぜている、という事が判明。従って、信州のエゴはやわらかめにで
きており、切り方も厚く切って食する。オキュートは固めにできており、薄めに切って
食べるという、食べ方の違いはあります。
でも、ルーツは同じであるというのがわかりました。

信州のエゴと博多のオキュートは同じもの

安曇族が信州に持ち込んだ食文化の代表オキュート。信州では安曇野とその北部から
新潟へかけて、現在でも食べられています。
信州では海産物が貴重品だったせいか、エゴを食べたのは主にハレの日。お祭りの時
などで作ったといわれます。現在でも乾燥したエゴ草を水でとかし、各家で独自の作り方で作り、食しています。
一方、博多では、昔はリヤカーに乗せて朝売りにきておりました。
さすがに現在は、売りにはきませんが、でも日常的に食しております。
博多のオキュートの作り方を、大正5年頃からオキュート作りをなさっている
井上オキュート店の井上弘子さん(72才)に伺いました。

安曇族が信州に持ち込んだエゴ(オキュート)

           
安曇族が九州から持ち込んだもの、それは馬だったり、そして馬肉を食べる習慣だったりいろいろありますが、志賀島を拠点にしていた安曇族が信州へもっていった食文化の
典型的なものは、信州で食べられるエゴです。
これは乾燥させた海藻を一度水でもどして、お湯で溶かし固めて食するものですが、
これと同じ原料のエゴ草を使い、同じような作り方をする博多のオキュウトと全く
同じものです。
特に安曇野から北の地方へいくといまでも食べられているそうです。
信濃大町で旅館七倉荘を経営なさる松沢健夫さん(68才}ご夫婦に話をききました。
ご主人は北部の小谷、奥さまはその隣の白馬ご出身です。

磐井と安曇族は信州へ

北部九州を支配していた磐井一族は、いわゆる磐井の乱のあと、安曇族と共に九州から
日本海を通り、糸魚川から安曇野へ入ったというのが松本猛さんらの説です。
磐井の乱と大和政権の争いは、当時の朝鮮半島情勢ともからんでいます。
そこで、今週は九州歴史資料館の館長 西谷 正さんが当時の朝鮮半島情勢を解説
します。

志賀島の歩射祭

安曇族の拠点、志賀島の志賀海神社に残る1月14日、15日に行われた歩射祭を紹介。
8人の射手士によって行われる歩射祭。崎山権禰宜の話によると祭りの起こりは、かつて安曇百足(あずみのももたり)という人物が土蜘蛛退治をしたことに由来するといわれ、1月15日の祭の当日は、的まわりという行事から始まります。
大きな的(土蜘蛛)をもった人を射手士が追い詰めていくという行事です。
この後本殿の参道に作られた土蜘蛛にみたてた大的を射る行事があります。
弓は一人2本づつ3回射ます。
的の中心に当たれば、よいやあという掛け声がかかります。

志賀島の銅結舞

安曇族の拠点となった志賀島。ここには今も古くから連綿と伝えられてきた行事が数多く残っています。その中の一つに、今年1月14日と15日に行われた行事、歩射祭があります。
14日の午前中に行われるのが銅結舞(どいまい)という行事。藁束を、酒樽を一回り大きくしたような形に束ねたのが銅結、射手士の練習用の的です。重さは110キロもあります。それに紐をかけてかつげるようにして、射手士にかつがせ、伊勢音頭に合わせて町を練り歩くのが銅結舞。
銅結をかつぐ新参の射手士の後ろには古参といわれる先輩の射手士がつき、銅結を右に左にゆさぶり、射手士をふらふらにさせます。
これは新参といわれる人を鍛えるための行事だとか。
そんな昔から伝わる行事の数々を紹介していきます。

安曇野の菩薩半跏像によく似た対馬の銅像

安曇族が持ち込んだとみられる安曇野の松川村観松院の菩薩半跏像、この像によく似た像が対馬にあります。この像は対馬の島の中間程のところ、厳原から北へ車で30分程行ったところに万関橋という橋があります、この橋の近くに浄林寺というお寺があり、ここに安置してあります。
像は上半身が火災で失われていますが、下半身の作りから、大きさは観松院の像よりひとまわり小さいものといわれます。
そして、観松院の像と同じ頃作られたのではないかといわれます。
対馬は安曇族の拠点の一つともいわれます。2つの仏像にどう安曇族がかかわったのか興味あるところです

観松院の菩薩半跏像の詳細

安曇野の松川村のお寺、観松院にある仏像、銅像菩薩半跏像。
この像は高さが30センチと小さく、手で運べるような大きさの仏像です。
この菩薩半跏像は台座に座って右足を左足にのせた半跏像です。
京都の広隆寺に弥勒菩薩半跏思惟像がありますが、あの半跏思惟像は右手を頬にあてて考えるしぐさをしていますが、この観松院の像の右手は指をそろえて正面を向いています。
また、この松川村の菩薩半跏像は国の重要文化財に指定されています。
松本さんらは、この仏像を安曇族が松川村に持ち込んだと推量なさっています。
この仏像こそ安曇族が安曇野に入った証拠であると推量なさっているわけです。
そこで、この菩薩半跏像一体どういうものか解明していきます。
お話を鑑定にあたった大阪大学・大学院 文学研究科教授の藤岡穣さんに伺います。

安曇野市が一望できる長峰山

JRの明科の駅から車で30分程で登れるところに長峰山があります。
標高は933メートル。ここの展望台からは安曇野市が一望できます。
眼下に穂高神社が見え、犀川、穂高川、高瀬川の3つの川の合流地が明科であるのがはっきりわかります。
ここからの眺めは、安曇野市の観光写真でよく使われる場所だそうで、大変すばらしくここを訪れた作家の川端康成や井上靖、画家の東山魁夷が絶賛したという話が残っています。
この山で、安曇野市役所 明科総合支所 教育委員会 学校教育課長の大澤慶哲さんに
昔この辺でとれた鮭の話を聞きました。