Monthly Archive for 11月, 2015

真田家のその後・松代藩

真田幸村(信繁)の兄・真田信之が真田の家の実を残した地、それが長野市松代です。
ちなみに九州とのご縁もあって、10代目藩主は大村藩から奥さんをもらってます。
あと小倉藩と一緒に、ペリー来航時に横浜の接待所の警護にあたっていたとのこと。
その松代の城下町を、まつしろ文化財ボランティアの会・宮澤惠夫(しげお)さんの案内で歩きました。
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松代には武家屋敷が点在して残っています。武家屋敷で国の重要文化財指定を受けた5つのうちの一つが松代にあるとのこと。
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そんな街並みのなかで格別の存在感があるのが「真田邸」。ずーーーーっと続く壁で規模がわかるでしょう。
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ここは殿様のお母様のために作られたお屋敷です。
文久2年にいきなり「参勤交代制度緩和!」ってんで、「江戸屋敷にいる奥方さまが地元に戻るぞ~。
お住まいがないぞ~。」と大慌てで作られたそうです。
250年帰ってきたこともない、見たことすらない松代に戻る、いや来るって、そりゃあたいへんですよね。
ま、お迎えする方はもっとたいへんでしょうけど。
しかも、すぐに緩和が取り止めに名ちゃって、結局お母様がお住まいになられたのは2年だけ。
そのあとは隠居なさった殿様のお住まいになり、明治維新後は真田子爵・伯爵の家になりました。
女性のためのお屋敷なので、松葉模様が美しい壁紙や宝袋型の釘隠しなどが配されています。
畳敷きのお手洗いや板張りのお風呂場も残されてますよ~。
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寒い土地柄ですから、各部屋にこたつが立てられるよう炉が(?)切ってあるのが特徴です。
さらに象山を借景にしたお庭がすてきです。
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真田邸のすぐそばの「文武学校」も見どころです。
江戸時代の藩の学校の様子が見事に残っていて、TVや映画の撮影にもよく使われています。
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藩主も重臣も家来の子も出入りするので、玄関も学び舎もランク分けされています。
廊下にも戸があって、中級武士以上しか入れない、さらに家老以上しか入れないエリアもあるんです。
一番奥は殿様しか入れない空間が!殿様が家老と話したいときは「近う」と言って呼び寄せます。
その距離、畳2枚分=一間分です。結構離れてますよ、これ。いろいろたいへんだ。
ちなみに、殿様とお会いして目が合わせられる=話せる距離に近づけるのが「御目見え」で、そんなことできない距離の人たちが「御目見え以下」なんだそう。
なお、年に2回、殿様の前でテストが、つまり口頭審問が行われていたそうで、ここでの出来が悪いと城からいただくお米=禄高が変わってしまうという、家の名誉と実をかけた試験だったんだそうですよ。
試験日には父兄が付き添ってきて、各式順にずらっと並び、子どもが変な答えをしちゃったら、父兄は自ら謹慎したってんだからおそろしい。
やっぱりガイドしてもらいながら歩く城下町は、わくわくと「へえ」がいっぱいです。
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□ 松代観光情報 → http://www.matsushiro-year.jp/
□ ながの観光コンベンションビューロー → http://www.nagano-cvb.or.jp/
□ FDA フジドリームエアラインズ →
http://www.fujidream.co.jp/

寒い時期こそ!善光寺

背筋までぴん!と伸びそうな透明な空気に磨きがかかる寒い時期こそ、善光寺がおすすめです。

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なかでも日の出とともに本堂で始まる「お朝事」は格別な時間です。

宗派のない善光寺、門前にある天台宗25院、浄土宗14坊の僧がお勤めして運営なさっています。
お朝事の前半は天台宗の、後半は浄土宗の僧侶の読経・声明が本堂に響き渡ります。
本堂の中は、誰でも入場料なく入れる部分は「外陣(げじん)」、入場料が必要な仏様の前のエリア「内陣」があって、ここまでが私たちの生きる世界=此岸(しがん)です。
さらに結界を越えた向こうは仏様の世界、つまり極楽浄土=彼岸で、僧侶だけが入れる「内々陣」とさらに限られた僧侶しか入れない「るり壇」という構成になってます。
で、仏様の前の幕が上がった瞬間に、すべてが同じ空間になるんだそうです。
「遮るものがなくなって、その瞬間、みなさん極楽浄土にいらっしゃるということになるんです」と、案内してくださった善光寺庶務部長で徳寿院住職の清水雄介(しみずゆうかい)さんが、教えてくださいました。
こういう「結縁(けちえん)=仏様とご縁を結ぶ、つながること」が体験できる場所が善光寺なんだそうです。
お朝事の時は「お数珠頂戴」といって、本堂前をお通りになるお導師様の水晶の数珠で頭に触れていただくという儀式もあります。
これも「結縁」。極楽浄土への一歩なのです。
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お導師様がお出ましになるタイミングは鐘と太鼓で知らされます。
本堂で拍子木と鐘の音が響くのを合図に、夜の間閉められている「るり壇」前にかかっているお幕が上がります。
さらにそれに呼応するように大勧進から太鼓が聞こえてきます。
この太鼓が「お導師のお出ましですよ」っていう合図なんです。これは大昔から、毎日毎日、変わらずに続けられています。
携帯電話やスマートホンが当たり前の現在になってもそれは変わらない。
「その“変わらないこと”が大切なのであって、だから毎日繰り返しているわけです」と清水さん。
これらの音の響きは、冬の冷たい空気の中のほうが、より澄んだ響きに感じられます。だから、善光寺は冬がいい!
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またさらに雪の季節になると、お勤めなさる僧侶のみなさんが『ゆきぼうし』という外套を着用されます。
雪で衣が濡れないように、真っ黒なコートのようなもので頭から覆われ、顔だけだしているので、「千と千尋の神隠しの“カオナシ”みたいでしょ?」と清水さんが笑います。確かに!これも冬の見どころです。
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□ 善光寺 → http://www.zenkoji.jp/

□ ながの観光コンベンションビューロー → http://www.nagano-cvb.or.jp/
□ FDA フジドリームエアラインズ →
http://www.fujidream.co.jp/

高遠城址で戦国時代を感じる

伊那市の高遠城といえば、桜の名所として超がつく名所です。
赤みの強いタカトオコヒガンザクラが城址に見事に咲き誇る様子は、TVや新聞、雑誌などで見かけたことがあるでしょう。
このお城の戦国時代の面影について、高遠城の桜を育ててらっしゃる伊那市桜守の稲邊健次郎さんに教えていただきました。
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高遠城は、武田信玄~勝頼の時代に、武田勢VS織田・徳川勢の重要軍事拠点だった場所。
信玄の熱い信頼により命を受けた山本勘助(城造りの名人)が設計に関わったという名城です。
高遠城の最期は、信玄の五男・仁科五郎盛信(信盛とも)がわずか3000の兵で織田伸忠53000の兵と戦い、死に際に自分の腹を裂いてそのはらわたを投げつけたという伝説があるそうです。
桜守の稲辺さんは「冬こそ戦国時代が感じられる」と、おっしゃいます。
「ごまかしがきかないので、はっきり戦国の城閣の跡を見ること感じることができるんです。
花が咲いたりすると花に目がいっちゃうんで、城郭としての魅力が隠れてしまうんです。
花が終わり葉が散ってからが本格的にこの城のよさが出てくる時期ですね」と。
さらに「向こうに見える山々に木がなかったとイメージして見ると、またおもしろいですよ。稜線が変わってきますからね。
年がたって木々の高さは変わってきてます。戦国時代はほとんどなかったはず。
山の上の方は馬用の草っぱらだったはずです」ともアドバイスが。おおお。そうなんですねえ。
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また、城址に残っている空堀は戦国時代とほぼ変わらないそうです。
堀に下りて「今立ってるとこも戦国時代のまんまですよ」なんて言われると、テンションが上がります。
薬研掘なんですが、掘った後その土を上にあげて土手にして、さらに堀の深さを加えているんですって。
堀に下りて見上げると「ほー」って、なります。本丸近くの堀なんて、ゆうに3mはあります。
また「外と内で土の固さが違う、角度も違う」と稲邊さん。「踏んでみると、結構柔らかいんです。空堀の土手は。
上がりにくくするために。崩れやすいんです。昔、鎧冑着けてると重いんですね。だから戦力的にいいんです。
石垣だと登られちゃうんです、引っかけて」と稲邊さん。石垣は見栄えのためのもの、なんですねえ。江戸に入って充実したそうです。
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高遠城は冬はバードウォッチング天国だとのこと。理由は稲邊さんたちが薬を使わず桜を育ててらっしゃるから。
ムササビやフクロウといった鳥たちや小動物が増えて、桜の害になる虫を食べてくれて、いい生態系が作られるんだそう。
桜守として薬を使わない育成方法を選んだのは、消毒をすると稲邊さんご自身の身体がまいってしまうことからだったとのこと。
止めたらいい結果が得られたんですね。また「桜を育てるのは人を育てること」と、稲邊さん。
「そうでないと桜は育てられない」ときっぱりおっしゃいます。「僕が今育ててる人が、その次の人を育てていかないと100年もたないでしょ」と。
いつまでもお話させていただきたくなる、桜守の稲邊さんでした。
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□ 高遠城址公園 → 
http://inashi-kankoukyoukai.jp/cms2/archives/852
□ 伊那市観光協会 →  http://inashi-kankoukyoukai.jp/
□ FDA フジドリームエアラインズ →
http://www.fujidream.co.jp/

真田家は松代藩へ

 

関ヶ原の戦いを前に、真田家は父昌幸(上田城で徳川勢を足止めした)と幸村=信繁(次男)が豊臣方に就き、信之(長男)が徳川に就くことを決めます。
結果、信之が真田の家を継いでいくことになるんですね。しかし、もともとの上田治めることはできず、大きく山を超えた松代に移封になります。
居城は松代城ですが、戦国時代ファンには「海津城」と言ったほうがなじみがいいでしょう。川中島の戦い=上杉勢と武田勢の大合戦の舞台の一つです。
松代の町は、江戸時代の武家屋敷が点在しています。松代文化財ボランティアの会・宮原惠夫(しげお)さんにご案内いただいたのは「長国寺」。
松代・真田家の菩提寺です。
屋根瓦の六文銭が、真田探訪のハートをくすぐります。宮原さん曰く「ここのお寺の本殿は、屋根にしゃちほこがのっかってるでしょう?珍しいんですよ。
普通は鴟尾(しび)をのせますから」と。
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本殿の奥のエリアに初代・三代・四代藩主の御霊屋(おたまや)が建てられています。
初代・信之公の御霊屋は豪華!左甚五郎作といわれる鶴の彫刻や、ふすま絵、金箔の扇、格天井には狩野探幽筆と伝えられている天井画など、思わず「おお」と声が出ます。
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しかし、三代・四代の御霊屋はかなりおとなしめというか質素というか…。宮澤さんの見解は「実は、四代目以降の御霊屋はないんです。作られてない。
だんだん幕府に責められ、経済力が低下していたんです。
幕府はどうやって松代藩=真田家をつぶすか考えていて、真田はつぶれる寸前まで追いやられたんです」とのこと。
でも、元の土地・上田からさほど遠くない所への移封だし、松代藩主になる時に4万石加えられたはずです。
でも宮澤さんがおっしゃるには「実際の禄高=実高はもっと低かったのかもしれません。
実高が問題で、表高は十万石というけれど実際は11万とか12万とか、もっとギャップが大きいのが普通なんですね」と。
てことは、表高ほど実高がなかった可能性もあるのか?松代藩?「だってね、二代将軍秀忠は“真田憎し!”で固まってるわけですよ。
“自分が関ヶ原の戦いに間に合わなかったのは真田のせいだ!”って、目の敵にしたろうと思いますよ」と宮澤さん。
そうよねえ。38000兵も連れて進軍してたのに、たった3000の兵の真田に上田城で足止め喰わされて、挙句の果ては肝心かなめの関ヶ原に間に合わず、家康父さんを激怒させ、しばらく会ってももらえなかったんだもんなあ。
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その御霊屋の奥に、歴代藩主の墓所があります。ずらっと並んで見事ですが、黒田の殿様のお墓を見ているので、正直な気持ちは「なんか…ちっさい」。
高さ2mないくらいなんです。まあ、石高5分の1ですもんね。ここで発見。初代信之公のお墓の向かいに、幸村・大助親子の墓碑があります。
宮澤さんが「これが建てられたのは大正時代なんです。幸村とその子供の大助は大坂の陣で亡くなった人。
死んでから墓碑まで300年ほどかかってるのは、江戸時代通じてこの二人を祭るなんて考えられないことだったんですよ。
徳川と刃を交えた男をお祭りするのは、はばかったんですね。江戸時代を通じて幸村のことはここでは無視、ですよ。
幸村という名前が何故ついたのかは不明ですが、信繁という名前を広めるわけにはいかなかったのではないでしょうか」との見解を示してくれました。
ああ、そうだ。きっとそうだ。信之公だって、もともとは信“幸”だったもの。
真田姓で幸が付くということは反徳川の印とイコールだったんでしょう。
この菩提寺だって元は上田地域の長“谷”寺です。谷を国に変え、同音異字にして批判をかわしたのではないでしょうか。
いろんなことに思いがはせられる長谷寺。必見です。
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□ 長谷寺 → http://chokoku-ji.jp/
□ 信州松代観光情報 →  http://www.matsushiro-year.jp/
□ ながの観光コンベンションビューロー → 
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