第26回 宗像・沖ノ島と関連遺産群・世界遺産登録登録への道
2015年3月29日
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今回が最終回です。世界遺産登録への道として、宗像市の世界遺産登録室・室長の岩佐芳弘さんと
福津市の福津市総合政策部・世界遺産登録推進室・室長の青木正吾さんのお二人に世界遺産登録にはどういう手続きがいるのか、
登録にはどんなことが必要なのかなどを伺いました。
今年は他に3つのライバルがいます。
一つは北海道・北東北の縄文遺跡群、この中には遮光器土偶で知られる亀ケ丘石器時代遺跡や三内丸山遺跡というものが入っています。
二つ目は百舌鳥・古市古墳群、ここにある仁徳陵古墳は日本最大で、エジプトのピラミッド、中国の秦の始皇帝稜とともに世界三大墳墓に数えられるものです。
三つ目が佐渡鉱山遺跡群です。これらのライバルに勝ち抜いていって世界遺産登録へとなるのです。
そんな世界遺産のお話を伺っています。
(津川洋二)

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道の駅むなかた
この春の最新情報を、山崎宏幸館長に伺ってきました。
まずは「米酢」の発売。宗像産のお米を使って、大川の庄分酢さんに仕込んでもらったこだわりのお酢。
さらに、道の駅むなかたで販売しているお寿司のすし飯に、この米酢を使ってもらう計画もあるのだそう。
これって、すごい!また、「黒酢のいいのも少しだけ作ってもらう」と館長がにんまり。予定は4~5月。待ち遠しいですね。
もうひとつは、敷地内にアンテナショップを構えている『正助ふるさと村』とのコラボレーション「たこやき」!正助ふるさと村で作ったお米の米粉でたこ焼きを作っちゃうそうです。
しかも、タコは地元漁師さんの獲ったタコ。店頭に「今日のタコは○○さんのタコ」と表記予定だそう。こんなの見たことも聞いたこともないです
。早ければゴールデンウィークにはデビューの見込み。
3月から、天神から宗像大社・道の駅むなかたを結ぶ特急バス『むなかた号』も運行を開始して、より便利さがアップしてます。

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第25回 宗像市の田熊・石畑遺跡の謎
2015年3月22日

3月22日放送

宗像市のJR東郷駅の近く、交通量の大変激しいところにこの遺跡はあります。
この遺跡は弥生時代中期前半頃の遺跡で、ここからは銅剣・銅矛・銅戈が大量に出土し古代史ファンの注目を集めています。
何故ならこの遺跡の時代は、魏志倭人伝に登場する邪馬台国時代の国々と同時代または少し前の時代の遺跡ではないかとみられているからです。
しかも、出土した銅剣・銅矛・銅戈といったものはこれらの国々の王墓から出土しているものだからです。
ここでは、一つの墓から多いので銅剣が四つ、銅戈が一つという墓もあるのです。
宗像国ともいえる国があったのでは、という専門家もいます。
この遺跡の横には川が流れていて、遺跡には港の跡らしきものがありますし、その港から荷物をあげて保存する空間、そしてその空間を警護するように周りをぐるっと囲んだ環濠があるのです。
ここから出土した銅剣・銅矛・銅戈は現在「海の道むなかた館」で展示してありますから遺跡を見学した後は、ぜひこちらものぞいてみて下さい。
(津川洋二)

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ふくつ灯明まつり
福津市の市制10周年を記念して行われる「ふくつ灯明まつり」。宮地嶽神社から海まで真っすぐ伸びる1.5kmの参道に紙製の灯明が並びます。
さらに周辺の会場では、灯明を並べてウミガメやふくろう、お祝いのクラッカーなどを描きだす地上絵も作られます。
その数20000個!やんわりと暮れていく春の夕暮れの中で、最初はぼんやりと、そしてだんだんきらめきだす灯明の美しさは格別だそう。
ぜひ、早めに出かけて長時間楽しみましょう。「海と灯明のコラボレーションが絶妙」と、福津市広報秘書課長の吉田雅子さん。
3月28日(土)18時から20時30分まで開催です。雨天順延。

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第24回 太宰府 水城の謎
2015年3月15日
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太宰府の水城は天満宮に参拝に行く途中通りますから、よく知られた所。
水城は白村江の戦いで倭国が敗れ、唐と新羅の連合軍が攻めてくるのを想定して作られたものです。
土塁の長さ1.2キロ、高さ約10メートル、幅80メートルです。
東門と西門があります。
土塁は2重構造になっていて、下の下成土塁の下は敷粗朶という工法が使われ、当時太宰府にあった樹木33種類を使って作られていたそうです。
そして、その樹木を調べると初夏に土塁の作成にかかったのがわかったそうです。
ところが外堀に水がたたえられていましたが、その水はどうやって貯めたのかはまだわからない点が多いんだそうです。
三笠川の水位が低いので全て三笠川から流しこむのは無理なのではとみられているからだそうです。
天満宮といえば菅原の道真。道真もひょっとしてここを通ったのでは。そうなんです。
東門を通ったとみられるそう。そんな興味深い話を太宰府市教育委員会の井上信正さんは披露してくれました。
(津川洋二)

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鴻臚館跡展示館
古代の迎賓館=鴻臚館。京都、大阪そして福岡の3ヶ所にあったとされるなか、はっきり場所と規模が特定されているのは福岡だけ。
昔の平和台球場の敷地とその周辺あたりが鴻臚館跡になります。
大陸・半島から来た使節は、正式なものかどうか確認されるまでは鴻臚館に留め置かれ、その後、太宰府を経て都に送られます。
迎賓館としてだけでなく、入国管理局であり検疫所でもあったようです。
北館・南館いずれにも大規模なトイレが作られていたことからも、入国者への衛生管理の厳しさがうかがえます。
大正末期に鴻臚館の場所を特定した中山平次郎先生は、万葉集の歌をヒントにしたそうです。
いろんな逸話があって、それもおもしろい!鴻臚館跡調査事務所の池崎譲二さんに教えてもらいました。

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第23回 海幸・山幸の話は阿曇王権神話
2015年3月8日

福岡市東区和白、そして粕屋郡新宮町、志賀島付近一帯をかつて本拠地とした阿曇氏。
阿曇氏はかつて、玄界灘を船を縦横に操り操朝鮮半島との国々との交易に携わってきました。
その阿曇氏のことについて「海神宮訪問神話の研究」の著者、福岡市在住の宮島正人さんが大変興味ある説を展開しています。
古事記に記述されている文章「つくしの日向の橘の小門の阿波岐原に至りまして禊祓いたまいき」という箇所の解釈を「つくしは九州全体又は北部九州の、日に向かう地の立花山の尾頭山の青柳」と解釈。
立花山は、粕屋郡新宮町と久山町の境界にある山で、その丘陵につながっている山が標高122メートルの尾頭山であり、阿波岐原はかつての宿場町青柳である、という解釈です。
つまり、ここは阿曇氏が本拠地としたことが書いてあるという。
そして、それに続く文章に、ここで伊佐那岐大神が禊をして生まれたのが綿津見三神であり、これが阿曇氏の祖神であると続きます。
海人宮訪問神話というのは、海幸・山幸の説話。
これがどう阿曇氏の王権神話と結びつくのかじっくりお聞きください。
(津川洋二)

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八女茶の名付け親
明治時代に「このみ園」の初代・許斐久吉さんが、八女地域のお茶を『八女茶』と名前をつけてブランド化したのは、
八女の和紙を使った焙炉(ほいろ)で作った蒸し製の緑茶を他の(それまでの)釜入り茶などと区別して広めるためでした。
八女和紙があったからこそ生まれた八女茶は、輸出用のお茶でした。
江戸時代からのこのみ園の建物には輸出時に貼られたラベル=蘭字や資料が残っており、当時のお茶の審査場に取り付けられていた日除けが復元されていて、
八女茶資料館として見学できます。野口雨情や竹久夢二の直筆掛け軸もあるんですよねえ。
六代目許斐久吉を継いだ許斐健一さんのお話を聞きながら、海を超えた八女茶に思いをはせてみましょう。
ちなみに、許斐家のご先祖は、戦国時代まで宗像氏に仕えていた許斐一族だそうです。

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第22回 古賀市船原古墳からまたまた馬具が
2015年3月1日
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2年前に金銅製の馬具が出土し一躍注目を浴びた古賀市の船原古墳。
今度は別の埋納坑からまた馬具が出土しました。その最新情報です。
前回は金銅製歩揺付き飾り金具という、馬の後ろ側にとりつけ、馬が歩くと花弁型の飾りが光を反射しながら揺れるという装飾品は注目されました。
今回見つかったのは鉄製の轡が5点。されに注目されるのはこの古墳は当初円墳とされたのが再調査の結果、前方後円墳ということが分かったことです。
ということは、この古墳の被葬者がかなり地位の高い人物で中央の大和王権とつながりのある人物だということです。
そして、出土品の数点は新羅の影響を受けている点。
当時、倭国と仲が悪かった新羅の影響とは、話を聞いた古賀市教育委員会の森下靖士さんはこの件について興味ある話を聞かせてくれました。
(津川洋二)

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鹿部田渕遺跡=みあけ史跡公園

古賀市の鹿部田渕遺跡跡では、古墳時代後期=6世紀中ごろ~7世紀初めにここにあった建物の柱跡に柱を立てて、当時をイメージできるようにしています。
この遺跡の発掘も担当した古賀市教育委員会文化財係の甲斐孝司さんは、ここが掘立柱建物(総柱建物と側柱建物)であり、規則正しい配置になっていることなどから、
「一般的な集落や豪族の居館というより、もっと公的な昨日の高い建物群だろう」と推測なさっています。
花鶴川の河口も近く、近隣にある永浦古墳から朝鮮半島系の遺物が出ていることや半島系の墓性を取りこんでいること、
鹿部田渕からも5世紀代の半島系の土器が出ていることなどから、港を管理するような施設だったかも…?という可能性だってあります。
鹿部田渕遺跡から花鶴川へ向かい河口まで下って、古賀の海岸に出る散策コースをとると古代ロマンが広がりますよ~。
そして、本編で紹介した「船原古墳」を通る(学芸員さんの解説あり)ウォーキングイベント『古賀を歩こう』が、3月21日(土・祝)に行われます。是非ご参加を!
→ http://www.city.koga.fukuoka.jp/cityhall/work/shogaku/027.php

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第21回 百済の武寧王は佐賀県の加唐島で生まれたは真実か その2
2015年2月22日
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太宰府の国立博物館ボランティアの皆さんが、百済の武寧王は佐賀県の加唐島で生まれたのか、それとも糸島郡で生まれたのか真実を探りました。
今回は現地調査が主です。実際に船をチャーターし、壱岐から南下しながら目視で確認しました。
というのはその頃の航海は目で見えるものを確認しながらの船を進めたと思われるからです。
そこで、壱岐から船で南下しました。当日は晴れの天気だったそうです。
そこで見えたものは加唐島で、糸島半島は見えなかったのです。
距離的にも加唐島の方が近く、糸島半島は遠く、妊婦を乗せた船は糸島へは向かわないだろうと思われたのです。
それに、加唐島のお年寄りに聞き取り調査をした結果、かつて韓国の偉い人が加唐島で生まれたという話は伝え聞いてるという話が聞けました。
結果として、武寧王は加唐島で生まれたという結論になりました。
それにしても、皆さんの様々な角度からの調査見事なものでした。
(津川洋二)

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世界遺産めざして

これまでの海の道リポートをまるっと体験できるような催しが、3月15日(日)に行われます。その名も「宗像・沖ノ島と関連遺産群一日めぐり」!
JR福間駅と東郷駅から、30分ごとに臨時バスを運行することで、マイカーでないと効率よく周りにくい構成施設や周辺スポットを楽しめるように作られています。
驚くほどお得な一日乗車券や、豪華プレゼントがあたるスタンプラリー、また、構成資産ではガイドもついています。
お天気がよければ大島から沖ノ島が見られるでしょうか?詳しくはこちらへ。
→ http://www.okinoshima-heritage.jp/news/detail/99

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第20回 百済の武寧王は佐賀県の加唐島で生まれたは真実か
2015年2月15日
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佐賀県の加唐島は呼子から船で15分の距離にあります。
この島で百済の武寧王が生まれたという説があります。この説は事実なんだろうか。
国立博物館のボランティアの皆さんが、この歴史上の謎に挑みました。
武寧王が加唐島で生まれたと文献に登場するのは日本書記。一方韓国の文献には登場しません。
そこで、この日本書記の記載は事実ではないのでは、と思われてきました。
ところが、1971年武寧王の王陵が発見され、墓誌石に武寧王が倭国で生まれたと記載されていたのです。
そこで、俄然日本書記の記載は真実ではないかと考えられるようになりました。
武寧王の出生が文献に登場してくるのはもう一つ、萩野由之の大日本通史。
こちらは、志摩郡韓良とあります。
ボランティアの皆さんは武寧王は果たしてどちらで生まれたのか、意見が分かれたといいます。
その経過を今回と次回で探っていきます。
果たして結論は?
(津川洋二)

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勝屋酒造
宗像大社辺津宮の御神木(楢の木)のそばに「永代献酒」の碑があります。
建てたのは赤間の勝屋酒造。酒造りが上手くいかず困っていた明治中頃のご当主が、何とかしたいと宗像大社にお参りし続けたところ、造りが安定し、その御礼にお酒を奉納することを決めたそうです。
お酒の名前も御神木からいただいて「楢の露」。
今では、大島中津宮の「天の真名井(あめのまない)」からいただいた水を仕込み水に取り入れた「沖ノ島」というお酒も作っています。
城山の伏流水で醸した勝屋酒造のお酒は「味のある、口当たりマイルド」なお酒だと、専務で杜氏の川嶋利之さんはおっしゃいます。2月21日22日は酒蔵開き。
プレゼントのぐいのみで出来たての新酒を楽しみましょう。
大正元年から昭和59年生まれまでの4人の女性のおひなさま展示や、庭に点在する70種の椿を切り花にしての展示も見どころです。

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第19回 百済と倭国との交流
2015年2月8日

朝鮮半島では、かつて高句麗、新羅、百済と3国に分かれた時代がありました。
この内、当時の倭国と最も友好的な国は百済でした。
仏教を倭国にもたらしたのは百済です。そんな百済と倭国との間の交流を探ってみました。丁度今太宰府の国立博物館で「古代日本と百済の交流」展が開かれていますので
その主な展示物から国立博物館の展示課主任研究員の岸本圭さんに話を伺いました。
その一つは奈良の石上神宮の七支刀です。門外不出でめったに目にすることができないものです。
四世紀の後半にこの神社にもたらされ、倉の中に長い間眠っていたものだとか。
長さ75センチもあるもので中心の刀身から段違いに左右に3本づつ枝刃がでています。
そして刀身の裏表に61文字の金象嵌がほどこしてあるというものです。
そして6世紀になって、百済は仏教を倭国に伝えるのです。
当時百済は北の高句麗から攻められ、倭国に軍を要請したかったからだとか。
しかし、そんな百済も7世紀になって唐と新羅の連合軍に攻められ滅亡してしまうのです。
(津川洋二)

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宮地嶽神社の夕陽
玄界灘に向かってまっすぐ延びる宮地嶽神社の参道。その真正面、参道~鳥居~海~相島の奥に夕陽が沈んで、参道がオレンジ色に輝く…。
そんな幻想的な風景が年に2回、10月20日ごろと2月10日ごろに見られます。案内してくれた福津市商工観光課の井上真智子さんもその夕景のファンの一人。
その時期は、名前も知らないけど顔を見れば「夕陽の人だ」と分かり合える「年に二度集まる親族会」みたいな雰囲気で人が集まってくるとのこと。
写真を撮るにもおすすめだそうで、陽の沈みかけの時間帯は影が長く伸びて、人が歩くと風情があるそうです。
また海の近くまで行くと鳥居と夕陽のアップが撮れるそうで、これまたステキ。
「福津ブランド=福津に来て味わえる景色やそこに流れる空気」という思いで、夕陽写真を撮ってPRに努めていた井上さん。
実は、この夕陽がきっかけで結婚なさったそうなんですよ~。プロポーズも参道の一番上。ああ、縁結びの夕陽だわ

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第18回 糸島高等学校歴史部の研究
2015年2月1日
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(写真は糸島高校歴史部神野先生と部員の藤田君、藤野さん)
伊都国王墓の近くにある県立糸島高等学校。この学校は縄文時代の遺跡の上に建っています。
従って、全国で唯一といわれる博物館には、ここから出土した石鏃などが展示してあります。
歴史部は25名という大人数。平原王墓の発掘調査をした考古学者、原田大六さんがこの学校の、そして歴史部の大先輩なのです。
2000点の収蔵品のほとんどは原田さんが収集したものだとか。
指導に当たっていらしゃるのは顧問の神野晋作先生。
部長は2年生の藤野りか子さん。藤野さん達が実施した研究は糸島市稲留にある火山(ひやま)の調査。
藤野さん達は火山という名前から、かつて白村江の戦いで倭国は敗北、ために唐と新羅の連合軍が攻めてくるのではないか、という状況の中で、ここにはのろし台があったのではないかという仮説を立て調査をしたものです。
番組ではもう一つの調査、かつての伊都郡と志摩郡の神社の祭神を調査、同じ糸島でも北部の志摩郡と南部の伊都郡では祀ってある神も違う、という調査結果は大変興味のある研究でした。
(津川洋二)

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鎮国寺
境内に入るとふわっとやわらかい香りがただよう鎮国寺。さらに奥に進むと、美しい淡紅梅の姿があらわれます。
凛とした枝に、ほころんだ花、ぷっくり膨らむつぼみ…。思わず両手が合わさってしまうありがたさです。
ご住職の立部瑞真さんも「梅は花とつぼみのバランスがいい。近くから見て、より楽しい花」だとおっしゃいます。
弘法大師(空海)が唐から帰国して、宗像大社に御礼参りした時に、この地とめぐりあって開山された鎮国寺。
そのエピソードを学んだり、宗像を守る5人の神様の本地仏がいらっしゃる『五仏堂(本堂)』をお参りしながら境内の花々を楽しみましょう。
ちなみに淡紅梅のピークは2月10日前後。寒緋桜も美しいですし、これからは花々が楽しめる季節にはいってきますよ
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第17回 安曇族の拠点 志賀島の歩射祭と胴結舞
2015年1月25日
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博多湾に浮かぶ陸続きの島、志賀島。ここはかつて海を生業とした海人族、安曇族の拠点となった島です。
ここに昔から伝わる弓を射る行事、歩射祭がいまでも昔からのしきたりを残しながら伝わっています。
ここでは、八という数字があらゆる行事の基本になっています。
弓を射る射手士は8人、神社で神楽を舞うのが八乙女の舞。射手士が奥津宮の神事で使うダイダイが8コといったように全ての行事が八と関係のある数字。
昔は1月2日から歩射祭の本番の15日までぎっしりとスケジュールが組まれていたそうですが、今はそれを2日間で行いますから射手士も大変です。
今年は1月17日と18日の二日間行われました。
17日早朝から行われのが胴結舞(どいまい)。これは弓の練習用の藁を束ねた的を今年初めて射手士になった人が背負い、神社から数10メートル離れた頓宮までを伊勢音頭を歌いながら練り歩く行事です。
なにしろ胴結の重さは100キロ以上もあり、一人ではとても背負うのは無理で、仲間の射手士に助けてもらいながらふらふらと練り歩くのです。
8人の射て士も全員ふらふらで、最後は宮司の家に矢を射って終わるのですが、その後は今度は島の北部、勝間海岸にある沖津宮の神事にのぞみます。
寒風吹きすさぶ中で、ふんどし1枚になって海に入り、古参から海の中にもぐってガラモという海草をとってこいと命じられ、海にもぐらなければならないのです。
そんな行事が終わってやっと翌日の歩射祭を迎えるのです。
(津川洋二)
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志賀島をぐるっと周れる外周道路。あの道路は進駐軍が作らせたって、ご存知でした?
それまでは、島の中の各集落をつなぐ山の道しかなかったそうです。
戦後、雁の巣周辺に進駐軍の将校住宅施設などがおかれましたが、志賀島は格好のリゾートエリアだったんです。
でも、ぐるっと便利に周れる道がない!そこで国にプレッシャーをかけて外周道路を作らせた、と。
また、島と海の中道とをつなぐ部分を今は「道切」と書いたりしますが、元は「満切」でした。海が満ちると道が切れるから。
そんな地元ならではのお話を教えてくれたのが『しかのしま資料館』の上田一二美さん。
資料館にそろった民具や、元寇で元軍の兵士がかぶっていた鉄かぶとなどもぜひ見て下さい。
また、万葉集に納められた「志賀島」を歌った23首の和歌の資料、そして島に作られた10の歌碑情報もチェックできますよ~。

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